ジャズスタンダードに期待するものってなんだろう。
別にジャズスタンダードに限らず、音楽全般、もっというと芸術だってスポーツだって、レストランや遊園地にも、それぞれ何かの期待を持ってその場に行くんだと思います。
僕はもともとリスナーなので、知ってる曲を望まず、むしろ聴いたことのないもの、観たことのないものを望んでライヴを聴きにいきます。
もちろん知ってる曲が出てくれば一緒に歌ったりもできるでしょうし、それも確かに楽しいんですよ。
でも、1番楽しいのは知らない曲や何が起きているのかわからないことが出てくることで、そんなときに体の動きを止めて、全身でただそれを浴びること、受け止めることが1番楽しいかな。
AppleDayは結成当初からオリジナルをやってきました。
始めたての頃は曲が足りなくて、馴染みのある曲をセットリストに加えていましたが、今では皆無です。
それがなぜいきなりスタンダードだけで構成されたライヴをやろうということになったのか。
僕個人としては、"音楽には完成はない"ということが今回のplays standardsの企画の根幹になっています。
もちろん例外もあるけど、例えば絵画は発表されればそれ以降は手を加えたり、大胆に描き直したりされはしないですよね。
ところが音楽は何度でも書き換えられます。
それは音楽が時間芸術であり、音楽の正体は"時間そのもの"であるからだと思います。
たとえ録音として残したとしても、それは完成や正解を意味しているわけではなく、連続する時間のわずか一瞬の時間を切り抜いたにすぎないということです。
写真に似ているかもしれません。
長い物語を忘れないように、メモを取っている感じにも似ています。
偉大なインプロヴァイザーたちが、自分を形成するのに影響を受けてきた曲に対する今の想いを音にすることを幾度となくやってきました。
それは僕のようなどこの馬の骨ともしれない野良演奏家にとってもそうで、常に心の中にある影響を受けたたくさんの曲に今の想いを乗せてみたくなるもんなんです。
まぁ、それをして人は"自己満足"というのかもしれませんが、果たして真に自己満足できている人がこの世にどれほどいるだろうね。
僕はそうそういるとは思えないけど。
現に、大好きなスタンダードをやったことでも満足できず、むしろ思いが強いが故に思い通りにいかないことが出てくると余計に満足できないもんです。
憧れを捨てるには、捨てるための憧れが要ります。
その憧れは目標でもあり、理想でもあり、いつか越えて行きたいところでもあるわけです。
オリジナルをやるときの比較対象は自分たちでしかないけど、スタンダードをやるときの比較対象は偉大な先人たちです。
それこそ無謀ともいうべき挑戦ですよね。
なんせ相手は"人類遺産"ですから。
AppleDayのplays standardsにお越しいただいたみんなに心から感謝します。
また力をつけてこの企画をやろうと思います。
次回はオリジナルをお届けします。
新曲が続々出てきますからね!
お楽しみに!
吉島